teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]


438

 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月27日(木)22時24分19秒
  色々と施設を出て、実家にいる時に就いた仕事で、ハウスクリーニングをやっていた事があった。ハローワークで見つけた仕事だったが、内状はひどいものだった。私が付いていた人は、覚せい剤を使用して、ロシアンパブに入りびたりの様だった。結婚して子供がいるのに、大変な生活を送っている様だった。
会社は、もともとホストだった、社長はホスト、働いているのは全員がホストではなかった。日給で仕事をするのだが、夜通しの事もあった。ひどい仕事環境だった。結局社長に辞めます、と伝えた。しかし、簡単には辞めさせてくれなかったので、ボイコットした。そして、ハローワークに苦情に行った。

その時に、スポンサーに電話をしたら、繋がらなかった。それで別の人に電話した。最後にイザワさんという、元右翼・・いや現役右翼の方に相談したら、ハローワークに相談する事を勧められた。それでダメなら、私が直接行ってやる、と言ってくれて、私は安心した。
 
 

437

 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月26日(水)23時46分0秒
  私は今までに色々な仕事、アルバイトをしたと思っている。その一つに・・全てが続かないのだが・・今も楽器を習い始めて、多分続かないような気がしている・・が・・。その時は近所のピザ屋のデリバリーをやった。歩いて行けたし、バイクの免許を持っていたからだった。バイトには高校生だか・・可愛い女の子もいた。しかし夜間の運転中に怖くなり、辞める事となった。今思えば眼が、視力が悪かったのだ。メガネをしていたら、多少違ったかもしれない。実家にいて、食事は母にもらっていたのだと思う。今と同じだ。施設を出て、実家の二階に住まわせてもらい、生活していた。アルバイトも続かないで、一体生活費はどうしていたのだろう。

郵便局で配達の仕事をしていた事もある。面接に行き、何か知らないうちに採用された。向こうは私を重宝してくれたが、私は給料に見合わないと思い、残業を頼まれたりして、嫌になった。郵便局長にFAXを送り、憲法違反だといって、電話にも出なかった。そのまま辞めた。一度、何年もしてその頃の上司に郵便局付近ですれ違った事が有った。
 

436

 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月25日(火)23時15分34秒
  施設を退寮して、実家に帰ってから、私はアダルトビデオの制作会社に勤めた。年末の事だった。トウドウという編集部の監督が面接だった。受付には女性がいて、その後姿にどきりとさせられた。制作部の二階・・三階だったかにプロデューサーの部屋があって、その隣に面接室があった。
実家の二階に住んでいて、その頃トシさんが、タイのラマイから日本に帰って来ていた時だったと思う。その頃ホームページに、写真をアップしていたのだが、トシさんはそこに無修正の画像を投稿した。電話で話したのだが、風邪をひいているとの事で、見舞いに行くといったが、断られた。電話ではアダルト雑誌の会社の面接に行くと話したりした。
その面接先には、スーツを買ってビシッとして行った事を覚えている。そこは面接で女性の上司がいて、結局落ちたのだが、神田だかに会社はあった。
しかし、ビデオ会社には対していい格好をして行かなかった覚えがある。しかしそこに採用された。
採用されてしばらくは研修という事で、制作部のADをやっていた。とてもハードな仕事で、泊り込みで仕事をした事がある。でも、まわりの人たちが辞めていく中、私ともう一人の人は残った。
私は無口だったから、コミュニケーションが取れなきゃダメだと、指摘された事もある。その頃同時に、ホームページに猟奇的な写真を実名に様を付けて公開していた。狂っていた時期だった。
結局乱交に参加して、その後希望の編集部、モザイクをする所だが、そこに移る事ができた。誰か先輩に車で送ってもらった。
編集部で一年位仕事をして、企画書を提出して、それで辞めると言ったら、転属になった。そして制作部に行く事になった。私は事務所でじっとしていた。
社長と一緒に食事をした事もあったが、食費がかさむので弁当を持って行って仕事した。
しかし、それに耐え切れず辞めた。そしたらすごく楽になった。
 

435

 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月24日(月)23時58分44秒
  二十を過ぎて、六年位の時だろうか、私は兵庫県の東芝のブラウン管工場で働いていた。借金が沢山あって、今で言う多重債務と言う事だろうか。何件からもローンで・・返済がかさんでいた。それや両親から借りたお金を加えて、二百万位だろうか。それらを全部返済してしまいたかった。チャラにしたかった。それで、季節労働者として、兵庫県まで行った。働いているうちに、自分自身がロボットになったような錯覚に囚われたりした。私はこんな事の為に生まれて来たのではない、人生は楽しまなければならないと。それで、その工場の仕事から逃げ出した。両親からも逃げ出した。社会から、日本からも逃げ出した。その先がロサンゼルスだった。
ロサンゼルス行きの飛行機の中で、ウイスキーを飲んでもどしてしまった。
工場では食堂があり、そこのレジには、きれいな感じの人が働いていた。
住んでいた工場の寮の近くに、レンタルビデオ屋があり、そこでアダルトを借りたのを覚えている。
工場の仲間と一緒に、食事・・お好み焼きに行った。その帰り、私の部屋で飲んでいた。ある一人が、私がジャクソン・ポロックの様な方法で書いた絵を、ピザだといって齧った。
工場の入り口で、ヨシコに電話をしている。彼女は私にケータイを持つ事を、勧めた。しかし私はケータイを持たなかった。
工場へは車で皆でまとまって出勤した。信号待ちをしていると、私が信号無視をしているようだと、ある一人が私に言った。
すごく遠くに、図書館があって、そこでニーチェを読んだ。そしたら涙が出てきたのを覚えている。後バロウズの遺作も有った。そこには毒の造り方があいてあって、私は実際にそれを作った。ベランダの下の土の中に今も埋まっているだろうか・・。
ロサンゼルスに向う前に、部屋を片付けて、スーツケースを持って大阪方面に逃げた。借金は返していたが、それをまたサイド限度額まで借りて、百万くらいの現金があったはずだった。
大阪で・・神戸かなデリヘルを呼んだ。射精したら、精液に血が混じっていた。その女事は仲良く時間が過ごせた。その前に居酒屋に行って夕食は済ませてあった。
それから上野の小さなホテルに停まったり、松戸や馬橋に行った。松戸では一晩で二人の女を呼んだ。一人はタイ人で、一人はロシア人だった。
馬橋ではマサオ君の家に停まった思い出がある。本を何冊か置いていった。
マサオ君の家にはパソコンがあった。私はそこから、ロサンゼルスに、成田空港に向った。
その頃、工場で働いていた頃には、なんでも考えを文章にして書いていた。そしてその結論が人生は私の物だ。自分の好きな様に自分の人生を送る事ができる、と確信に至った。今ではある掲示板でその様な事をしている。文章化することで、自分お気持ちをまとめたり、日記にしてふり返ったりしている。
私は何も成し遂げていない、わたしは何をやってますと堂堂と言える事がない。それは今も同じだ。二胡を習い始めた、超初心者だ。
 

434

 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月23日(日)23時41分39秒
  アルバイトをしていた時に、妹は学生だった。ある時私は妹に一万円をあげた。理由は定かではないが、何か突然その様な事がしたくなったのだろう。
その頃の私は、派遣で配膳をやっていた。都内のレストランや宴会場に行って、給仕の仕事をしていた。家にはお金は払っていなかったから、まるまる自分のお金、小遣いになった。妹は私立の高校に通っていた。私は実家の一階に住んでいて、狭い方が私の部屋だった。もともとそこは、おじいちゃんが寝ていて、使っていた部屋だった。
性的に目覚めた時に、おじいちゃんの部屋にあるテレビで少しやらしい映画を、見ててしかられた事があった。
おじいちゃんが死んだとき、ケイコ姉ちゃんが涙を流していたのを、覚えている。
涙と言えば、おばあちゃんが死んだとき、病院で私は涙を流した。妹が私に、「・・泣いたの?・・」って言うような事を聞いた。
おじいちゃんが死んだのは、高校生位の時だろうか・・。よく覚えてはいない。涙を流した覚えもない。おじいちゃんは昭和天皇が亡くなった時、正座をして「・・死んじまった・・」とつぶやいた。おじいちゃんは元大工で、確か昭和天皇と一緒にうつった写真があったような思い出がある。
ある時私は、まだ子供の頃、おじいちゃんの足をけった。それをおじいちゃんは痛そうにしていた。私はおじいちゃんと仲良くした記憶があまりない。おばあちゃんとも・・。そんなはずはなかったろうに・・。沖縄のおばあちゃんが、好きで沖縄から帰ると、沖縄に帰りたいといって電話口で言った覚えがある。
 

433

 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月23日(日)00時53分10秒
  私は一体何がひたかったのだろう。何か一芸が欲しいのだろうか。二十三位の時に、何度か寝た女の子に栃木に行く事を、電話で伝えた。彼女は看護婦だった。私はその時にSMのショーパブに働いていて、SMに深く興味があった。看護婦に彼女の事もMだと思っていた。彼女は葛飾に住んでいた。今はもう結婚しただろうか、子供はいるだろうか。幸せに過ごしているだろうか。高校の時に。同じクラスになった事はないただミヤチ達とのクリスマス・パーティー何かで会い、電話して初詣に誘った。そしたら、来てくれて、結局食事をしてホテルに行った。私は上手くなかったから。デリヘルとしかやった事はなかったから、彼女をいらだだせた。
その事は、もう話したかもしれないが、重複したかもしれないが、今ここに詳しく書いておく。
そして、栃木の温泉に住み込みで働いた。夜眠れないときは、詩を書いたりした。ランボーに影響されたような詩だった。私は一体何を求めていたのだろう。
少なくとも妹や、普通の人が思う普通の生活というものに、関心がなかったみたいだった。女の子との接触は二十台に前半にはたた有ったし、冒険もした。
しかし今ではそんな遊びで女性と付き合う事は、できなくなっている。
これは施設に入ってから、変わった事だ。何か堅気の仕事をする意欲や、資格を取って、就職に有利に運ぼうとする意欲みたいなものが、今もない。
代わりにいまは二胡という楽器を習っている。
思ったとおり、難しく、十年で一人前になれればと思っている。それよりも仕事に関することに前向きになった方が、良いのではないだろうか・・。そう思ったりはするが、そうは感じなかった。
作業所に行っているから、研修が終わったら、週に三回にしてもらう、午前中だけやって、午後は楽器の練習だ。果たして授業に今は着いていけるが、これから先はどうだろうか。

二十歳位の時にランボーの詩に、関心を深く持った。
ランボーの詩を紙に書いて、友達に渡した事もあった。
あるいは、クロサワというクラスメイトと部屋に二人いでいて、覚せい剤をやっていた。
話はバロウズの事となり、私は「男の気持ちは男が一番わかる」と言った。彼は少し引いたみたいだった。
彼は在学中に、女の子を妊娠させてしまい、中絶のことでもめたみたいだった。
あるいは、話はずいぶん変わるが渋谷の古着屋にドリス・バン・ノッテンのGジャンを売りに行った。始めは上手く行ったが。二度目は衣類が濡れていて、恥をかいた。
始めは先生になったウチダと一緒にいたが、二度目はクロサワと一諸だった。
私は映画監督ですなんて大法螺を吹いた。それはタダさんの影響だろうともう。
私は彼になりたかった。彼のように振る舞い、彼に様に思われたかった。
 

432

 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月22日(土)01時52分37秒
  二十五ぐらいの時だったと思う、私は栃木にある、温泉宿泊施設に住み込みで働いていた。
そこではいろんな事があった。バーで働いていた時に密かにんビールを飲んでいて、それが見つかったり。飲み会に行って、車で送ってもらい、彼氏の相談を受けた。私は思わず、頭をなでてしまった。そしたら気安いぞと言われた。その子はなかなかかわいい子だった。
彼女もできて、タイムカードのところで、オマンコに指を突っ込んだり、車の中で抱き合ったり。隣に人がいる、寝ている所で、セックスをしたりした。
結局二期そこで働いた。その後は、兵庫県の東芝のブラウン管工場で、季節労働者として働いた。それは借金を返済する為だった。彼女とは私がケータイを持ってなかったので、それきりになってしまった。今頃彼女は子供を生んで、立派に育てている事だろうと思う。
とてもしっかりした女性だったから。
 

431

 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月20日(木)23時51分21秒
  新聞配達をしていたのは、確か覚せい剤を使い始めた、オークラを辞めてからの事だった。私は何かもを売り払い、或いは捨てて少ない荷物で着替えもない布団もない様な状態で、新聞配達の白金、アサヒ新聞配達店に実家の二階から逃げた。
時々、表参道までカブに乗って、マニアックラブと言うクラブに行った。そこでも覚せい剤使用者がいて、その人から分けてもらった?一緒にやった覚えがある。
或いは新聞の拡張員に大麻を何万円か分、買った事もあった。
そういうものとは関わりたくない、離れたいと思っていたはずなのに、それに手を出してしまっていた。まさに依存症の症状が出ていると言う状態だった。
或いは、新聞配達の知人、同僚の前で、コカインを誘って吸ったこともあった。
そお方は、テレビに教育を受けたと言っていた。
入ったばかりの時に、みなが声、挨拶をしないとの事で寂しい思いをしたと言っていた。
ある学生があるとき私に尋ねた、「・・夢とか有りますか?」私はなんと答えたのだろう。
記憶にはない。熱いまなざしで、昼間は学業に専念する学生配達員だった。
一年私はその新聞配達をやった。店員になったり、社員になったりしていた。
この頃の事が、矢のように思い出される。沢山の思い出。ビールを朝まで飲んで、そのまま配達に行ったり、雨の中、新聞を載せたバイクから新聞を落としてもらい、アキヨシさんという方に手伝ってもらった。
昼間に近所のレストランでオムライスを食べたが、それがすごくおいしかった事。
都営住宅に配達している時、気になる女の子ができて、その子は近くのスパーにバイトしていた。ボーイッシュな感じの女性で、専門学生負だったみたいだったが、ある時「リキッド・スカイ」と言う映画をやるので、それに誘った。バーで酒を飲み、それからマニアックラブに行った。私が踊らないのを、寂しく感じていたようだった。それからタクシーで白金まで帰った。
彼女が仕事が終わるのを待ち伏せして、彼女を誘ったのだ。その頃は、その様な事ができた。オークラに勤めているときも、女の子を誘ったりもできた。
ハマザキさんには世話になったが、仕事を辞めると付き合いがなくなってしまった。せいぜい一年くらいが私の限度のようだ。彼女ができたとしても、すぐに飽きてしまうのかもしれない。
ハマザキさんには、家に泊めてもらったこともあった。酔いつぶれて、タクシーで帰ったのだろうか、私は結局世話してっくれる人がいながら、それと無しに連絡をしなくなってしまった。頼れる誰かがいればよかっただろうに。
私はある一時期、熱心にやって、燃え尽きてしまう。それが私のパターンだ。今は二胡を習っているが、それも無理してやらないほうがいいかもしれない。
みんな今は何をやっているのだろう。大勢の人たちに面倒を見てもらい、そしてそれらの重圧や、仕事が続けられる根気がなくなって、辞めてしまう。何かこれから先、何か一つでも、続けていけることがあればそれに越した事はない。何か趣味のようなものでもいい。
 

430

 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月19日(水)22時55分36秒
  仮性包茎を治した二十三位の頃、童貞を卒業できた。相手はデリヘルの女の子だった。私は意地が悪く、行為が終わったらその子の黒い下着を隠した。彼女は困っていた。外には送り迎えの車が停まっていた。場所は幡ヶ谷で、代々木上原の辺りで高級住宅街だったせいかなかなかかわいい女の子が来てくれた。しかし私は風呂無しのボロアパートに住んでいたから、彼女もきっとビックリしただろう。風呂なしと言う事で、別料金を請求された。  

429

 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月18日(火)23時05分48秒
  二十三位の時だったと思う。私は自分が、仮性包茎である事を男性誌で知り、ローンを組んで手術に行った。整形外科・・だったかどうか、よく覚えていないが、山の手何とかと言う所で、確か高田馬場だった。包茎の手術自体は十万で済んだのだが、バランスが悪いからと言って、シリコンを両脇に入れる事になり、四十万位にはなったと思う。結局それは自分で払えなくて、両親に払ってもらった。
手術が失敗だったのか、その晩、痛みとふくらみに我慢できずに、救急車を呼んだ。次の日その手術を受けた病院に行くと、医師は笑っていた様な思い出がある。
笑っていたのは、手術をする前、金額の事を話していた時だったか。イスに座り、白衣姿でデブだった。メガネをかけていた。
手術中におしゃべりをしていて、何か偉そうな事を言っていた。医学は外科が最もすぐれているとか何とか、その様な事を話していた。
 

レンタル掲示板
/20