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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月12日(土)23時32分9秒
  アメリカに逃げる前に、私は本で読んだ毒を造っていた。それはベランダの下の土に埋めてある。今もそこに眠っているだろうか。「夢の書」と言うバロウズの本を借りて、そこには毒のつくり方が、書いてあった。それをその通りにつくったのだった。
駅まで歩くのは、長い道のりだった。車やバスを利用するなんて事は、頭になかった。
ただ、ひたすら歩いた。夏の暑い時期で、図書館へは酒飲んで行ったから、辛い道のりだった。ニーチェを読んで涙が出てきた。小さな図書館だったが、バロウズもあった。確か本を切ってしまって、お詫びをした覚えがある。
アメリカに行く為に逃げる、その駅はその図書館の傍にあった。アーケードになっていて、寂れた駅前ではあったが、その改札口で切符を買い、電車に乗った。スーツケースを持っていた記憶がある。
残してきた部屋は、シーツなんかは洗濯して、室内に干してあった。一応片付けて来た様に覚えている。私が逃げた事を聞いて、他の皆はどう言う風に思ったろう。
同僚とは、ソープランドに行ったり、お好み焼きを食べて酒を飲んだりした。でも私の心の奥底を。共有できる人はいなかった。でもそれなりに、楽しくやっていたが、体がもう限界だった。
ある時花見に参加して、工場長・・も同席していたように覚えている、私に笑いかけてくれていた。
 
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月11日(金)23時45分50秒
  近所のスーパー、バイト先がつぶれて、私は確か配膳の仕事に戻ったと思う。そこはかなりハードな仕事内容で、かなりきつかったが、とにかく人がいないのだ。ホテルオークラで働いていた時も辛かったが、その内容が違った。サービス業は向いていて、評価もされていた私だったが、牛丼屋で働いた時は、もう怒られっぱなしだった。安い食事になればなる程、大変な仕事になったし、プライドも持てなくなっていた。
配膳を最後にしていた時、宴会の片付けをしていて、私がやっている事を、誰かが叱った。それに対して私は逆切れして、大声を出してしまった。その後、嫌な雰囲気の中、ロッカーの鍵を返し、もうそこには、行かないと電話で事務所に伝えた。
借金の50万だけが残り、それは今も返済していない、催促は来るのだが、生保だから・・。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月10日(木)20時38分47秒
  施設を出て、実家に戻った頃、近所のディスカウント・スーパーでレジや品出しのアルバイトをしていた事がある。私の存在は、向こうから見ると、異様な存在に見えたのかもしれない。何か、自分でも自身の持てない時期であった。自助グループにも参加せず、絵を書いたりしたり、物を写真で取って、インターネットで公開したりしていた。一度だけ小岩の会場に、出て行ったが、しっくりしなかった。
その店は、しばらくして潰れてしまった。今は空き地になっている。
そのアルバイト当時、高校生のバイトがいて、その子に一度話しかけていたら、店長の横目が、気になった。
そんなに忙しい店ではなかったし、毎日働いていたわけでもない。その店を辞めて・・というか潰れてから、配膳の仕事をしたように記憶している。
その話しかけた女子高生だが、図書館でたまたま見かけた事がある。挨拶もしなかった。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月 8日(火)23時38分6秒
  昔施設を退寮して、実家に帰ったとき、洗濯機をアキモさんに、実家まで届けて貰ったことがある。彼は物を玄関に置いて、そのまま部屋には上がらず、帰ってしまった。その事を私は寂しく感じた。
その頃、ピザ屋でアルバイトを始めた。近所のドミノピザで、二輪の免許を持っていたから、簡単にできると思っていたが、夜の運転は怖かった。多分メガネをかけてなかったからだと思う。それで、研修期間中に辞めると店長に言うと、向こうは納得がいかない様で、給料を私に支払わなかった。今考えると、そのような事は、許されるのだろうか。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月 7日(月)22時19分39秒
  小学生の頃、よく虫取りに行った思い出がある。蝉と蝉を相撲させたり、その時の蝉はどうしただろう。死んでしまった・・殺してしまったのだろうか。沖縄に行った時も、おばあちゃんと一緒に虫取りに出かけた。ウトゥババとも一緒に虫取りや、伊江島に出かけたり。その頃捕らえた虫達を、殺してしまったのだろうか。よく覚えていない。
道を歩いていると、車で走っていると、蛇が車に轢かれているのを見た事もあった。
沖縄で首に、ニシキヘビを首にかけた事もあった。あの頃の私は、沖縄でまわりに溶け込んでいたそうだ。エイサーがあればそれに率先して参加したらしい。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月 5日(土)23時07分44秒
  小学生の時の事だったと思う。私はヒロちゃん、同級生と?一緒に夜、近所を歩いていた。そして私は他人の家のピンポン、呼び鈴を鳴らして走って逃げた。俗に言う、ピンポンダッシュである。その事をヒロちゃんは母達に話してしまい、私は怒られた。それで逆切れして私は、家を飛び出した。外は雨で、私は裸足でびしょびしょになった。どこかのアパートの二階に上がる階段の所で、じっと震えていた。家に帰ると、ヒロちゃんの母親にびんたを食らわされた。  

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月 4日(金)22時29分17秒
  私が二度目にタイにいたときに、日本人の年配の男性に金を貸してくれと、頼んだ覚えがる。その人とは、一緒に大麻を吸って楽しい時間を、過ごしたりもした。その人はタイで、農業をやろうと土地を買いに来ていた、みたいだった。チャーの母親だかと話をしている時に、私が割り込んでふざけた覚えがある。ふざけたわけではなく、ハイテンションでいて、知ってる人に会ったから、何か差し出した覚えがある。
でもそれを相手の年配の女性、チャーの母と記憶しているが、たじろいだ。あまりいい気持ちにはならなかったと思う。そういう表情をしていた。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月 1日(火)23時53分57秒
  私がロサンゼルスからタイに向ったのは、二度目のタイ滞在だった。一度目はマサオ君達と一緒にタイでいたことがあった。二度目は借金をして行き着いた終着点だった。私はお金に執着していた。だからサンにはホントに悪いことをしたと思う。サンは自分では大麻は吸わないが、売っていた、上質のものを・・。一度リュックサックいっぱいの大麻を隠して置いてくれと言われて、やっていた事があった。私は大変けちであり、宿にはいい思いをされてなかったと思う。毎日アヘンをコーヒーに・・紅茶に入れて飲んだり、座薬にしたり、食べたり吸ったりしていた。しかし、タイの山奥の村で、ヤーマーと一緒に吸った時は格別だった。
アヘンはバンガローの前の土の植え込みに、隠しておいた。夜になってそれを隠し、昼間はどこにも行かずに、カットアップページを作ったり、音楽を聴いていた。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月 1日(火)00時09分32秒
  アメリカに逃げて、はじめはロサンゼルスで、ヘロインにはまってしまった。しかしその後、いいホテルに泊まり、解毒をした。その時はそんなに長く使っていなかった。精々一週間程度だったので、辛かったが何とか乗り越えた。その後、私はニューヨークに飛行機で向った。実際にはフィラデルフィアだったか、デュシャンの遺作をこの目で見たかったのだった。それで工事中だったので、しばらくそこらを滞在して、それから拝む事ができた。その時もそれなりのホテルに滞在した。その時日本人とあって、飯を食ったりした。中華料理で、肉の残りがさらに残っていたのだが、断りもなく私が食べた。
その後ニューヨークで大麻をユースホステルの屋上で吸ったりしたが、あまりおいしくなかった。クラブに行き、ドイツ人とにらみ合いになったりした。公園でタバコを吸っていると、黒人の少年が来て、タバコをせがんだのでくれてやった。
ニューヨークでも美術館をまわった、ワシントンやピッツバーグでも同じような事をした。
モーテルで話しかけられた、好きな映画は何かと・・。しかし私は英語が話せなかったので、上手く会話ができなかった。
そしてしばらくしてロサンゼルス行きのバスに乗った。途中でセントルイスで宿に泊まった。バスの運転手は愛想が悪く、私をにらみつけているようだった。黒人が近づいて来て、タクシーを呼んでくれると言って、私は彼に六十ドルを払ったが、タクシーは来なかった。
薬を抜いての旅立ったので、足取りは重かった。とにかく有名な所には、歩いてまわった。
ロサンゼルスに戻る途中のバスで、日本人女性と会って会話をした。
ロサンゼルスでは、マッカーシーの個展を、展覧会を偶然見ることができた。そして私は日本人宿に泊まり、メキシコにも足を伸ばした、メキシコのティファナでは大麻を空の下、ビールを飲みながら、吸う事ができた。何人かの日本人と一緒に行動を共にした。その帰り、大麻を肛門に隠し国境を越えたときはドキドキした。
日本人宿では仲がよくなった人が一人いて、夜のジョギングに行ったり、ステーキを一緒に食べに行った。その人とはタイで再び会う事になる。
私はロスからタイのチェンライに電話して、ヘロインを用意してくれるよう、サンに頼んだ。そして飛行機で、日本関西経由で、バンコクに向った。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 5月29日(土)00時04分12秒
  私は二十六ぐらいの時で、借金をしてアメリカに行く予定だった。その寸前だった。松戸のホテルでホテトルを二人呼んだり、スーツやスーツケースを買ったりした。その中にCDもあって、グールドのゴールドベルクを買って、ウォークマンで聴いていた。エスカレーターに乗って、それを聴いていて、涙が出そうになった。
それから、馬橋に行き、マサオ君の所に行き、本小説を何冊か置いていった。そして、成田に向った。行きの飛行機の中で、私はウイスキーを飲んで吐いた。長い間飛行機に乗っていた。税関では、白い眼で白人ににらまれた。そんな気がした。
タクシーの運転手に言って、私はモーテルに泊まる事になった。そこはダウン・タウンから少し外れた所だった。地下鉄の駅までは、ずいぶんと歩いた。
そのモーテルで、一人の日本人女性と出会った。私は彼女とサンタモニカを一緒に歩いた。途中のバスで、彼女の袖と、私の袖が、肌と肌がかすかに触れた。日光がさわやかに私たちを照らしていた。うとうとと眠りに落ちるか落ちないか・・そんな状態であった。彼女は美人ではなかった、歯茎に特徴があった。帰り際、彼女をモーテルの玄関で送った。私は彼女の連絡先すら、聞かなかった。何しろ私は日本に帰るつもりはなかったから・・。彼女もニルバーナが好きで、音楽の話題で話があった。彼女は語学留学して、その後帰る間際だったみたいで、南にその後、サンディエゴに向っていった。
彼女が帰ってから、私はまた寝た、起きた時はもう夕方だった。私はコールガールを予防と思ったが、やり方がわからなかった。それで乞食に聞いて、ヘロインを求める事になった。その夜、その乞食に気絶させられる事になった
 

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