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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 7月 9日(金)00時35分33秒
  昔ヨシコと言う恋人がいた。彼女は北海道出身で、姉御肌で、たくましかった。そんな所にひかれたのだと思う。タイムカードの所で、抱き合ったり、車の中で抱き合っていたり、部屋、二人部屋だったが、布団中で、事をしたりした。私はタイに行き、異性と関係を結んだ。エイズになったような気がして、彼女とはそれからやらなかった。あのまま行けば、結婚していたかもしれない。しかし、私には野望があり、それには至らなかった。今思うと惜しいことをした。婚期を逃したのだ。今では結婚なんて夢のまた夢、まわりにその様な、女性の姿がない。このまま一人で死ぬまで過ごすのだろうか。好きな、素敵な女性がいたら、自分から声をかけて、映画に言ったりしていた時期もある。今の私には、そんな自信はない。  
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 7月 6日(火)23時25分29秒
  昔、墓参りに言った。そこで私は父に言われた。「お前もここに入るのだ」と。私は心の中で、その様な事を言われたのが、トラウマ・・と言うか反発していた。私の死に場所まで、親に決められるなんて、まっぴらごめんだった。しかし今では、当然の事の様に思える。母が死に、父が死に、おばたちが死に、その後で妹が先に死ぬか、私が先に死ぬのか、それはわからないが、わかっているのはあと十年が境なのだと思う。それから先は、私は一人になってしまうかもしれない。おばあちゃんは八十過ぎているから、その計算だと、あと二十年は生きている事になる、私の両親は。果たして私は一人になったら、どのように生きていくのだろうか。その事を考えると、嫌な気持ちになる。楽器を始めたのも、十年を見越してのことだった。  

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 7月 4日(日)00時29分53秒
  施設を出て、実家にいた頃、妹が子供を連れて、長期に家にやって来た。はじめは何でそんな事をするのかわからなかったが・・その理由は未だにわからない。妹の子供の頃の絵や作文を見て、家にもって帰ったらどうだと言ったが、妹はビックリした様子だった。私は子育てに役立つと思ってそういったのだが、父もそんな事しなくていいと言った。

タイに行ったとき、バンガローにいると顔が真っ青なイギリス系の人、女性がいた。男娼を連れているみたいだった。彼女の顔は真っ青で、人形の様に綺麗であった。しかし薬のせいだろうと思うが、真っ青で、目がいってた。

私はタイで女性にラブレターを書こうとしていた。途中フランス人と話していた、バンを呼んで、手伝ってもらった。バンは女性を口説いていたのだろうと思う。それを邪魔してしまった。バンには、バイクで遠くまで連れて行ってもらった。帰ってきて、金は払わなかった。バイクの整備に使うからと言って、五百バーツ請求された。お金には切羽詰っていたから、仕方がないが、あの扱いは友情を壊した。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月29日(火)22時35分18秒
  昨日に血液検査を受けた。それで思い出した事を、書こうと思う。私は過去にエイズになったのではないかと思い、何度かエイズ検査を受けた事がある。初めての時は、タイの病院でだ。その時は、サムイ島で女性とスキンをして、性交したにもかかわらず、怖くなって検査を受けた。その頃、日本には彼女がいたので、後ろめたさもあった。それが、別れる原因だったのかも知れない。二度目は神戸・・兵庫県のどこかで働いていた時に受けたが、陰性だった。その後しばらくしてから、再びタイに行き、オーとスキンなしで性交をした。それで帰ってきてから、検査を受けたと思う。西川口のヘルスでもスキンなしで、性交をしたが、その後医科歯科大学で検査を受けた時は、陰性だった。昨日も何もいわれなかった。娼婦と何度かノースキンで性交したが、エイズではないようだった。エイズでもいいような気のしていた、昨日だったが。  

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月24日(木)21時58分53秒
  今日実家で休んでいたら、昔のことを思い出した。以前私が使っていた、部屋。おじいちゃんの部屋で、元々タンスが置かれた所で、私は座っていた。テレビはタンスの上にあって、おじいちゃんはそれを見上げる形で、テレビを見ていた。母の話だと、私はおじいちゃん、おばあちゃんに可愛がられたようだ、しかし覚えているのは、だまして小遣いをねだり、もらったことだとか。おじいちゃんの足をけったり、やらしい番組を見ていて、叱られたことだった。おじいちゃんはいつ頃まで、生きていたのだろう。高校の時の・・高校中は妹と同じ部屋だったから、それ以降かその最中のことだと思う。ケイコ姉ちゃんが泣いていて、私に声をかけたのを覚えている。高校の時は窓側に私は寝ていて、タバコを隠れたて吸ったり、センズリを毎日のようにしていた。おじいちゃんが死んでから、妹がそちらの部屋に移った。そして、知らぬ間に・・二十の頃には、おじいちゃんの部屋に私がいた。家出をしてから、のことだったろうか。狭い部屋で、そこではホテルで派遣の配膳をしていた時期だ。覚せい剤を覚えたのも、その頃。友達とその彼女が来て、私の部屋を見たが、狭いと感じたことだろう。私はエロ本を収集していて、押入れの中にそれらを、隠しておいた。またある時は、友達に覚せい剤のあぶり方を教えていた。風呂から上がってきて、私の血行がやけによくて、それを指摘されたりした。寝てないで、風呂に入った為だと思う。ホテルでの仕事中に、座り込んでしまったことがあった。先輩は私のお尻が茶色いのを見て、くそをもらしたかと思ったらしかった。私は寝ないで泊まりの仕事をしていたから、参ってしまっていた。泊まりの仕事が終ると、覚せい剤をあぶり、アダルトビデオを見続けた。母に頼んで、休ませてもらったこともある。電話の向こうでミセキさんが、・・親に怒鳴ったらダメだと・・。  

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月21日(月)00時02分29秒
  二度目にタイに行った、時の事だと思う。私はチェンライのカラオケバーに行って、昴を歌った。歌いながら、涙が出てきた。その時近くにいた女の子は持ち帰った。彼女は私は心のやさしい人だと、思ったことだろう。私は薬をやっていたし、効果が長かった。彼女がお腹が痛いと言っても、行為性交を続けていた。彼女は途中で怒り出した。それで、薬をあげたことがあった。あるいは彼女に家、アパートに行き買い物を付き合わされて、買い物してあげた事もあった。私はアヘン系の薬にどっぷりだったから、いや彼女にも問題はあったのだろうが、しらけた気分でいた。彼女はお金を請求して、ある時から来なくなった。
その頃、男性が性交の時に声を出すと気持ちがいいと言う事を、知ってやった、試したことがあった。最近ソープに行ったが、彼女達は演技で声を出したり、いったとか言うが、それは私にとっては興ざめだった。基本的にそんなに大きな声やあえぎ声でわかるのだが、ソープの彼女の声は、明らかに演技だった。
バンガローで私は性交をしながら、声を出していた。今思うと恥ずかしい。隣にきっと聞こえていたことだろうと思う。隣はヨーロッパからのカップルで、とても美男美女だった。それがうらやましいと感じた。
性交の時、オーもそのカラオケスナックであった女性も、声は殆ど出していなかった。声を張り上げるのは、アダルトビデオの世界なのだ。
女性は出産の時に、苦しい切ない声を上げるそうだが、エクスタシーと言うのは、そういう様な事なのかもしれない。

男のあえぎ声と言えば、サムイにいた時に、隣に住んでいる年配の男性の悲鳴が夜には聞こえて来た。相手はカトゥイ、おかまだったが、攻められていたのだと思う。昼間になると、その男性はおかまとレストランで食事をしていた。
もうこの先タイに行くことはないのだろうか、死ぬ前に一度でもいいから、また、チェンライに行ってみたい。その様な願望があるが、今は生活保護だし、海外にはいけない。パスポートも必要だし、飛行機に我慢できるとも思えない。だから、病気が落ち着いてきたら、そうする事ができるかもしれない。
オンちゃんに電話をして、マサオ君の連絡先を聞くこともできる。でもそれをしたら、薬の使用がまた始まってしまうかもしれないし、躊躇している。しかし選択肢としては、ある事なのだ。また薬を使用して、ディスコで踊り狂って見たい。今まで苦痛の時間が多いわけだが、その時、ラマイにいた時は、本当に薬を楽しんで使用する事ができた。しかしトータルで考えるおどうだろう。また使用して、警察沙汰になったら、家族に面目がない。それをしないだけでも、すごい事なのだと、自信を持ってもいい。
しかし今の自分には自信がない。楽器も楽しんでやってはいなくて、多少苦痛にも感じている。夕方の疲れは、楽器の演奏から来るものだと思う。
芸術的、無為ではない行いは、私にはできないかも知れない。
しかしもっとがっつきと出会っていたらと思う時がある。今は楽器の練習をする事で、疲れが以前よりひどくなっている。楽器を練習して、集中しているから、その後に疲れがどっと出るのかもしれない。楽器の練習をもっと長くやれたらいいのだけれど、集中力や、、まわりの環境がそれを許さない。
二胡という楽器の音は大好きだ。それで曲ができるようになって、人前で演奏できるように慣れたらいいように思われる。親せきの前で、何か有名な曲を演奏できたらいいなと思う。しかし練習についていけるだろうか。今日の時点では、絶望的である。
先の方、半年先には、とてもできそうにもない。着いていけなくても、練習していても、レッスンに参加していてもいいのだろうか。それが心配である
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月20日(日)00時15分15秒
  二度目にタイに行ったとき、私はアヘンとヤーマーの禁断症状で苦しんでいた。ゲストハウスで、自力で薬を抜こうとしたのだが、それはできなかった。それで現地の病院に駆け込んだ。そこでモルヒネを打ってもらい、回復した・・一時期。ベランダには鉄格子があって、飛び降りれないようになっていた。そこで私は、タバコを空缶で吸った。苦しくなると、看護婦を呼んで駄々をこねてモルヒネを打ってもらった。
病院に行く前にマッサージ、整体を受けた、そのマッサージ士に何か助けてくれと言わんばかりの思いがこみ上げて来たのを、覚えている。

その時だったと思う。ロサンゼルスで出会った日本人と仲たがいした。それは私が薬の禁断症状で、辛かったからだと思う。一緒にソープランド「ポセイドン」へ行って、二人の女を私は買った。黒いほうが、後で選んだ方が、可愛かった。猫みたいだねといって、相手を喜ばせた。チップを千バーツ渡そうとしたが、拒まれた。その後にどこかに連れて行ってくれるのを、彼女は期待していたのだろうか。その後、中華料理屋に行き、飯を食った。途中で女を紹介されて、彼女達は笑っていた。それがひどく不気味なものに私には見えて、私はその店を後にした。タクシー乗り場で、相方と仲たがいした。あくまでもそれは、私の禁断症状のせいだったと思う。お互い別々に帰った。

入院、タイでしていた時、母が付き添いの男子にチップを渡したらしく、私は彼からバスケットボールをもらった。そのお返しとして。日本円でも大変な金額がかかったと思う。それは両親が全部払ってくれた。そして私は日本に帰る事ができた。帰ってから、空港から直接精神病院に行った、しかし空き室がなかったことや、私が比較的に症状が軽かった事から、家、実家に帰ることになった。
そしてもらった薬はとてもよく効いて、楽になったのだが、何故か私はそれを捨ててしまった。何故だろう。丁度おばあちゃんが来ていた。薬箱のパブロンをがぶ飲みしたりした。結局偶然フジモトと偶然会って、覚せい剤をもらった。それを両親の寝ている横の部屋で、やって、センズリをしていた。東京物語と言う映画を見たのを覚えている。

その後施設へ行き、覚せい剤を使用したから、と言って、入寮させてもらった。入寮生活は、実家にいるのが耐えられなかったからだと思う。それで家から逃げ出したのだ。ミーティングではいろいろな話をしたが、今では全然うまいこと話すことができないでいる。元々嫌いではなかったのだが、今はとても苦手で、一時間半座っているのがやっとである。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月19日(土)01時05分22秒
  幡ヶ谷に住んでいた時、ミヤチが車でやって来た。彼女も一緒だった。私は何かを無料で上げた。何か物をあげる癖が、私にはあった。

渋谷のブランド品買取に行った。私はクロサワと二人で、二度目に行った。ドリスバンノッテンの白いジージャンだったが、濡れていますね、と指摘された。私はクロサワを横に、恥ずかしい気持ちで、一杯だった。
ウチダ君と一緒に行った時は、自分の事を映画監督だといった。はったりだったが、ウチダ君は私を驚きの目で見ていて、鼻が高かった。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月15日(火)23時22分58秒
  二度目にタイに行った時は、お金にとても執着していた。それでサンを傷つけた事もある。ヤーマーを山の上で吸っている。サンは横目私の事を気にしている。ビクビクしている。私の様子をうかがっている。借金の逃避行で、残りのお金が全てだった。薬や女には金を使ったが、薬には特に使った。ホワイトとアヘンとヤーマーだ。
そういえばチャーはヤーマーを、南の方まで大量に運んだ事があると言っていた。決死の覚悟での行動の様であった。はじめの内は、そんなに金に気を取られなかったが、最後の方は、特に酷かった。薬のやりすぎが原因だと思う。
そして私は、日本に帰る事を考えていた。日本に帰ってから、手紙をヤーハウスに書いたことがある。そこで、薬漬けにされたと、裏切っておきながら・・。そういう被害妄想は未だにある。楽器を練習していると、先生の一言が結局生徒一人を、つなぎ止めて置く為の方法の一つのように感じたりする。
クリスマスか・・ミレ二アムの日だったか、忘れたが豚を丸焼きにした。それを食べさせてもらった。部屋ではオーが待っていた。オーは寂しさの表れか、キスをすると私の舌を噛んだ。そして、血が出ていた・・口の中で・・。それに気がついたオーは私を見つめた。
オーは入れると痛がったので、できなかった。一緒に寝て過ごした。彼女は私が二階に上がると、行くなと言って私を呼び止めた。次の日には彼女は料金と、タクシー代金を財布から出して、帰っていた。彼女は二階のベッドの枕の所に、犬のヌイグルミを置いて帰った。私は顔に吹き出物が沢山できていた、だろうから醜い顔だったろうと思う。
 

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 投稿者:ユダ  投稿日:2010年 6月13日(日)22時07分57秒
  昔、施設を出て、実家に戻ってから、アダルトビデオの制作会社に勤めていた事がある。辞め際には、私は上司達のいる前で、いきなりタイムカードを押して帰った。そして、その辞める理由を、タイプして社長に見せて、それを奪い帰った。厚生保健証を返せと連絡があった。退職金や失業保険の知識はなかった。イザワさんにチラリとその話を聞いたが、私はもうすぐに、逃げたかったのだ。
その会社で働いていた頃、掃除は私の仕事だった。私は定時になっても、帰らないでPが帰ってくるのを待っていた。だから、勤務時間は事務の人間より多かった。しかし、掃除をしてないと、それをしろと、ある女性に怒鳴られたりした。私は家でも仕事をしていたと言うのに・・。
 

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